吹奏楽部に所属していた時分、今思うと非常に混乱していた。
突然、コンクールで演奏される楽譜が渡されてこれを演奏しろというのだ。
まだ楽器を持って間もなく、エチュードすら演奏したことはなかったというのに。
その後も同じような状態が続いた。
所属している間、ずっと演奏されるレパートリーに違和感を覚えていたのだが、つい最近になってその違和感の正体を発見した。
今回はその発見をもとに吹奏楽部における演奏曲目(レパートリー)に関する提言をしたい。
吹奏楽部の演奏曲目(レパートリー)
今日の吹奏楽部で演奏される曲目は中学高校を問わず、ほとんどが現代曲である。
複雑怪奇な和声とドリーム・シアター(アメリカのプログレッシブ・ハードロックバンド)のような変拍子。
全体を把握するのは至極難しい曲が吹奏楽部のスタンダードとなっている。
一般に音楽に触れている人間からすれば異常事態だ。
なぜ吹奏楽部ではレパートリーが現代曲に偏った摩訶不思議な状態になっているのだろうか?
「コンクール至上主義」の弊害
今日の吹奏楽部はコンクールを中心に成り立っている。
多くの吹奏楽部はいくつかの演奏機会に恵まれるが、コンクールは他の演奏会など比べるまでもないほどの比重を置かれる。
コンクールに「勝てる曲」
コンクールで「勝つ」為には「勝てる曲」を演奏する必要が生じる。
自分たちの「強み」を増幅し「弱み」をなるべく隠してくれる曲を吹奏楽部の関係者は求める。
それに応えるように現代の作曲家はコンクールで「勝てる」曲を量産する。
なるべく盛り上がるように、派手になるように、見栄えするように、そして誤魔化せるように作曲された曲がコンクールで多く演奏される。
音楽的に素晴らしい曲よりも、「勝てる曲」がコンクールでは優先される。
歴史的な名作の「アルメニアン・ダンス」がコンクールでほとんど演奏されないのはそのためだ。
偏るレパートリー
コンクールで披露される課題曲と自由曲は、部の年間の練習時間の半分を割いて練習されるといっても過言ではないだろう。
その為、自然と吹奏楽部員はコンクールで「勝てる」複雑な現代曲に触れる機会が多くなる。
この状態は音楽の教育的な観点からすると非常に不健康なのではないか。
演奏する音楽は、演奏者にとって食事と同じである。
演奏し、深く触れてきた音楽によって感性や技術は鍛えられていく。
長い音楽史で異端とも言える現代曲ばかり演奏するのは、カップラーメンだけを毎日食べ続けるようなものである。
古典に学べ!
不健康なレパートリーからバランスの取れたレパートリーにする為にも、吹奏楽部は古典を取り入れるべきである。
何も今日の作家の作品が全て取るに足らないものだと言うつもりは毛頭ないのだが、今日まで受け継がれてきた古典作品は時間により十分に淘汰されている。
それらの作品は評価が確定しており、モーツァルトやベートヴェンの音楽が将来、否定される可能性はまず無い。
安心して学ぶことができるのが古典の魅力といえよう。
「正しいカレー」
「のだめカンタービレ」作中で、のだめはバッハの音楽を「正しいカレー」と評したが実に的を射た言葉である。
吹奏楽部にいた当時は気が付かなかったのだが、古典派の音楽は「普通の音楽」である。
上の動画は初期の古典派の作曲家、ハイドンの作品である。
今日の吹奏楽部のレパートリーとはかけ離れた音楽だと感じるだろうが、これこそが、簡潔で均整の取れた「普通の音楽」だ。
吹奏楽部に所属していた時分、漠然と足りないと思っていたのはこういった「普通の音楽」なのだった。
バッハの「究極の世界」
音楽の父と言われ、音楽室に必ずといっていいほど肖像画が飾られている作曲家、J.S.バッハ。
彼の音楽は非常に知的なものである。
感情に振り回されるような音楽ではなく、あくまでも冷静に隅々まで完璧に構築されていながらも、神秘的な美しさをたたえており、深く耳をすませば、なんとも言えない気分になる。
のだめのピアノ吹き替えでも知られるラン・ラン氏の演奏。
この曲は、ただ、分散和音が続く。
曲全体の和声の動き、一つ一つの音が持つ意味をはっきりと理解していなければ音楽として成立しない。
全ての音楽家がバッハの音楽を学ぶのは、彼の音楽を通して音楽の奥底にある真理を理解しようとするからである。
「吹奏楽部のための練習曲集」の提言
「急がば回れ」という言葉の通り、コンクールでいい演奏をしようとするのならば、しっかりとした感性と技術を身につける必要がある。
コンクールの曲ばかりを「練習」して出来上がるのはただのハリボテだが、順を追った体系的な学習で身につくのは安定した基盤の上に立つ難攻不落の城だ。
それらの学習は、たった一回の本番や、数年の部活動のためだけのものではない、人生を通して様々な音楽を楽しむためのものだ。
指導者のいない吹奏楽部
まともな指導者がいる吹奏楽部は一体、全体の何割なのだろうか?
定期的にプロ奏者が指導に来てくれるのならばいいのだが、経済的に困難な部が大半を占めるのでは無いだろうか?
また、まともなカリキュラムも確立しておらず、B -durを教えられた後はすぐにコンクールの曲を弾けと言われる人も多かろう。(僕自身はそうでした…)
定期的に各部員に定期的な講習を受けさせるのは困難だからといって、楽器を手にして間もない学生にコンクールの曲を弾けるように自分でカリキュラムを作成して練習しろと言うのはあまりにも酷だ。
練習曲集の偉大さ
ならばせめて、全国の吹奏楽部で使用できる練習曲集を作成してはどうだろうか?
ピアノの学習には「ハノン」や「チェルニー」、「ブルグミュラー」などの曲集を用いる。
「ハノン」はピアノを弾くにあたって指の動きなどの身体的な能力の向上を目指す。
「チェルニー」では読譜力やピアノ特有のテクニック、音楽の表現を短く簡単な曲で学ぶ。
「ブルグミュラー」は実際に学んだことを生かす実践の場である。
これらの曲集を作ったのは演奏者としてだけでなく、教育者としても活動していた方々で、学習者がより音楽的に「学ぶ」ことの出来る様に工夫して作られている。
ピアノはこのように練習曲集が充実している。
病院で薬を処方してもらうように、また薬局で薬を買うように、適切に教材を与えられれば学習の道筋が見え、自力で学ぶことができる。
「吹奏楽部のための練習曲集」概要
仮に、吹奏楽部のための練習曲集を作るとするとどうなるのだろうか?
少し考えてみたい。
目指すのは、
- あくまでも部活単位であること
- 音楽の知識を学べるようにすること
- 実際の演奏に活用できること
- 苦行のような「練習」にならないこと
曲は描き下ろしてもいいだろうし、既存のものを編集してもいいだろう。
曲集の構成
部活単位で使用できるようにするために、大掛かりなものになるが、4部構成にする
構成は以下の通り。
ソロ・エチュード
低音楽器を担当していたため、特に感じたが、合奏に用いるパート譜を演奏したとしても、自分が何をしているのか分からない。
音楽を作っている実感が湧かないのだ。
まずは自分一人で音楽を作らなければいけない。
もっとも重要な部分と言える。
この部分では各楽器の名著と言われる教則本を用いるのが好ましい。
パート・エチュード
各学年にそれぞれの楽器の奏者がいるため、基本的には楽器は複数人で構成される。
日常的に行えるエチュードとし、音感やアンサンブル力を鍛える。
音大生レベルの学習者が演奏会用に用いる曲は多いが、師事する講師と初心者の二重奏、初心者の二重奏の曲集は少ない。
室内楽
弦楽四重奏のような規模の異なる楽器の5、6人の室内楽。
アンサンブル・コンテストなどで音楽を構築する力が不足していることが露呈したという経験がある、もしくはそのような場面を見たことのある人は多いのでは無いだろうか?
積極的な音楽作りを目指す。
合奏曲集
簡潔で簡易な、コンクール受けを気にしない合奏曲をまとめたもの。
バロック、古典、ロマン派、現代曲、さまざまな時代と国の音楽に触れられるように編集する。
まとめ
クラシック音楽の歴史を見てみると、誰かが楽しむために描かれた曲が多いことに驚く。
貴族が娯楽として楽しむために雇った作曲家に描かせたり、楽器を弾くようになった庶民に受けて描かれたり…
音楽はスポーツとは違い、年老いてなお楽しめる、生涯の友とも言える存在だ。
音楽はやめられない。「やる」とか「やめる」とかではない。常にそこにあるものだ。
Tari Tariというアニメの作中でとある老年の音楽家が言っていた。
多くの日本人に愛される吹奏楽。
学生時代で全てを完結させるのも一つの手かもしれない。
完結するからこそ、思い出となり美しいまま記憶の彼方にあり続ける。
だが、中高の吹奏楽部を音楽の世界の入り口として機能するようにすればもっと日本の音楽シーンは面白いものになると思うのだ。
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