アニメ業界の悪い習慣として、取ってつけてようなお色気シーンや、無駄な性的描写を濫用したアニメが多々見られる。
大概のアニメにおいて、そういったシーンに合理性もなければ作品としての美しさのかけらもない。
しかしながら、下ネタを前面に押し出したアニメ、「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」はもっと評価されるべきである下ネタアニメだ。
極端な思想を描くシュルレアリスムの世界
実写映画化や、アニメ化もされた有川浩の「図書館戦争」。
こちらの作品では、「メディア良化法」により、「公序良俗に反する書籍」がことごとく取り締まられる。
比べてしまっては怒られるかもしれないが、この「下セカ」も同じような世界観で物語が展開する。
「公序良俗健全育成法」により、「健全できれいな世界」を実現した日本が舞台。
卑猥な発言をすると、体に常に装着することが義務付けられた装置によって摘発される。
エロ本は勿論のこと、恋愛に関する表現もすべて規制されるため、ゆがんだ恋愛観を持つ登場人物が多く登場する。
どちらの作品にも根底には、「行き過ぎた規制と表現の不自由」がある。
芸術の暴力
行き過ぎた思想を追い求めた社会の末路を提示することで、人々の思考を促す。
それは芸術の一つの役割ではなかろうか?
しかしながら、「芸術である」とすれば何でもかんでも許されてしまうわけではない。
極端な芸術に批判は必ずついて回る。
音楽の歴史での事件と言えば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演。
冒頭のファゴットの高音のソロで、サン・サーンスは席を立ったという。
また、その演奏会では賛成派と反対派で暴動が起きた。
もう少し最近の物は、ジミ・ヘンドリックスのウッドストックでのアメリカ国家の演奏。
今でこそ、ジミの名演として語り継がれるが、当時は賛否両論であった。
音楽以外では、ろくでなし子さんの事件が記憶に新しい。
「これは芸術だ。」
そういい張ればどんな表現をしようが許されるわけではない。
批判はされてしかるべきだが、鑑賞の機会と議論の時間は必要だ。
芸術のゆるぎない評価が決定されるには多くの議論と長い時間が必要なのだ。
芸術は思考を促すためのものである。
反射的に批判してその作品を投げ捨ててしまっては意味がない。
また、反射的に肯定しても意味がないのだ。
芸術作品が一時の意見で破棄されることなく、しっかりと人々のもとへと届き、時間をかけてその作品について議論されるような世の中になることを願ってやまない。
下ネタという概念が存在しない退屈な世界~社会派下ネタアニメ~
PVのサムネイルから何から何まで酷いアニメだが、
某「生徒会役員共」の活躍を描いたアニメとは違い、下ネタテロリスト「雪原の青」は自らの信念のもと下ネタをまき散らす。
特に前半は、下ネタをまき散らす爽快感があるが、要所要所は規制と監視の進んだ社会に対する「雪原の青」の真面目な見解が盛り込まれる。
後半、「蒸れた布地」の登場以降は下ネタ、社会派それぞれの比重がほぼ等しくなる。
下ネタだけでは薄っぺらい。社会問題を取り上げただけでは見る人を選びすぎる。
多くの人が単純に楽しめる内容でありながら、社会についても考えさせられる。
社会派下ネタアニメとでも言うべき、見事な塩梅のアニメなのだ。
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