「最近の声優は、いろいろな仕事をする」と言われるようになって久しい。
最近は「声優アーティスト」の肩書をよく見かけるし、Twitterでは「声優の○○、アーティストデビュー!」という見出しが躍る。
今回はその「声優アーティスト」について、音楽、映画、何よりアニメファンとして持論を述べたいと思う。
はじめに ~定義することの重大さ~
まず、個人の主張を二点ほど明確に示したい。
- 「アーティスト」という言葉は嫌いだ。
- 「声優」には役者でいてほしい。
「アーティスト」と「ミュージシャン」
近年の日本のメディアを見ていると、どうも「アーティスト」という言葉を濫用しすぎではないかと思う。
どんな形であれ、兎に角、歌を歌っていれば「アーティスト」と定義される。
Artist(芸術家)への敬意がいささか薄すぎやしないか?
何も、アイドルや、CDを出す芸能人、役者を批判するわけではない。
ただ、あまりにも広義に取られすぎた「アーティスト」は本来の輝きを失っている。
僕は、このブログでも「アーティスト」という言葉を基本的に使わない。偉大な音楽家や、楽器奏者、歌手を表す言葉として、尊敬と畏怖の念を込めて「ミュージシャン」という言葉を用いる。
たかが呼び方だが、呼び方はその人物の肩書であり、肩書はその人物を定義する。
定義の重要さは、数学を少しかじれば否が応でも理解できるだろう。
どうにも、カネのにおいと安っぽい響きをまとってしまった「アーティスト」は口にしようとは思えないのだ。
「声優」に関しても同じようなことが起きている。アニメ映画のキャストが「声優に初挑戦」という言葉と共に発表されて落胆した経験のある方も多いだろう。
声優は歌うべき?
前提として、僕は声優が歌を歌うことを批判するつもりはない。今よりも、もっと良いやり方があるのではないかと思っているのだ。
声優が歌を歌うことについて考える前に、そもそも、現代のポピュラーミュージックにおいて「うまい歌手」、「素晴らしい歌」とはどういった歌なのか考えてみよう。
歌唱力という曖昧模糊な言葉
歌手への評価として、「歌唱力がある」というものがある。
この評価は、実に曖昧模糊なのだ。
「カラオケで100点取れるのがカショウリョクっていうのかな?」
「歌唱力」は大きく分けて3つの要素の掛け算で成り立つ。
(歌唱力)=(技術)×(感性)×(華)
もちろん、さらに細分化できるが際限ないので便宜上この3つとする。「歌唱力」とは宇宙と同じくらい広大なのだ。
技術
ギターやドラム、ピアノと同じようにヴォーカルにも超絶技巧が存在する。
オペラでいえば、モーツァルトのオペラ「魔笛」より「夜の女王のアリア」が有名だろう。
0:40あたりから早速はじまるが、ソプラノの音域として一般的に指定される音域よりも上の音を使った跳躍、細かいフレーズやスタッカートは大衆向けに作られた「魔笛」ならではと言えるだろう。
「夜の女王のアリア」は超絶技巧としては有名だが、なんせ発声方法や、音楽に対する価値観が今回の話題とは大きく離れているのでもう一つ例を持ってくる。
スウェーデン王立芸術アカデミーの卒業生で結成されたスリーピースバンド「Dirty Loops」のヴォーカル、ジョナ・ニルヘン。メンバー全員がそれぞれセッションミュージシャンとして活動する、凄腕のバンドだ。
今回取り上げる曲はジャスティン・ビーバーのカバー「Baby」
アレンジの巧みさや、声域の広さにも目を見張るものがあるが、今回注目してほしいのは、フレーズの細かさと音程の正確さだ。
2:28にベースソロ(これまた超絶技巧)があけてからの20秒間は圧巻だ。最後は最高音から一気に最低音まで下って曲が終わる。
楽譜に起こすだけで大変なフレーズを一切の乱れなく歌いきる、技術的に素晴らしいヴォーカルとはこのことだろう。
感性
感性とは音楽性のことであり、また音楽家としての個性ともいえるだろう。
「フレージング」と「個性」について語る。
「フレージング」
歌手は、元となる単純なフレーズに装飾を加え時には大幅に形を変えて歌っている。このフレーズを装飾するセンスも歌手として重要な要素だろう。
以下はアメリカのブルースギタリストB.B.Kingと、世界一ギターが上手い夫婦として有名なテデスキ夫妻の演奏。曲目は「ユー・アー・マイ・サンシャイン」。CMにも使われる有名な曲なので聞いたことがある方も多いだろう。単純なフレーズを二人の異なる歌手がどう歌いあげるのか注目してほしい。
一度、妻、スーザン・テデスキがヴォーカルをとり、「私のB.B.Kingを取らないで」と歌ったあと、2:10から再びヴォーカルを取る。セオリー通り、ワンコーラス目はオーソドックスに歌い、ツーコーラス目から大きく変化をつけている。
こういったアドリブができる歌い手こそ歌手と呼ぶにふさわしい。もちろん、アドリブが重視されるジャンルではあるのだが…
「個性」
次は、技術的に上手かと言われると決してそうではないが、強烈な「個性」を持ったヴォーカル。そもそもバンド自体が独特なのだが…
ドイツのメタルバンド「ラムシュタイン」のヴォーカル、ティル・リンデマン。
このバンドは、歌詞のほとんどをドイツ語で歌っているにも関わらず、ヨーロッパ、アメリカなど広い地域で人気のバンドだ。ドイツ語特有の重厚な響きがバンドの演奏やティルのヴォーカルによくマッチしている。
夜道で出会えば、十人中八人は妖怪と見間違い、二人は妖怪と納得するような怪しいいでたちである。
よく聞くと音も外しているし、節回しも巧みなわけではない。しかし、地の底から轟くような声でラムシュタインの音楽を形作っている。
個性という評価項目は非常に主観的な項目である。しかしこれもまた、歌唱力と言って差し支えないだろう。
華
個性と同じくらい厄介なのがこの「華」というものである。
マイケルジャクソンのドキュメンタリー映画「This is it」作中、マイケルのバックダンサーのオーディションシーンで審査員が語っていた。
「みんなセクシーでスタイル抜群でダンスも超一流。だけど、華がないと採用されない」
こればっかりは、努力でどうこうなる代物でもないだろうし、いったい何をもって凄いのか分からないが、兎に角、「華がある」としか言いようのないことは多い。言い換えるならば、オーラだろう。
初めてオーラに圧倒された経験は、将棋のプロ棋士羽生善治先生を生で見かけた時だ。
将棋のイベントで、サインをしているのを遠目に眺めただけだが、圧倒されたのを覚えている。
漫画「ランウェイで笑って」では、パリコレモデルの放つオーラについて言及していた。実際にパリコレのランウェイに立った人の写真を見ると、その存在感に圧倒される。
「これがあると華が生まれる」「オーラの出し方」なんてものは存在しない、曖昧だが確かに存在する。厄介なことだが、実際に特定の人物から放たれているのだから仕方がない。
技術もフレージングのセンスも個性的な声もないのになぜかかっこいいヴォーカルと言えば、「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のアンソニー・キーディス。
もちろん、下手なわけではないのだが、伝説ともいえるその功績から考えると不思議なくらい普通のヴォーカルだ。だが、この上なくかっこいい。実際にサマソニで目にしたのだから間違いない。
結局歌唱力って?
マイクが使用されるようになって以降、発声の工夫によってホール全体に声を響かせる必要はなくなった。マイクを使用するからこそ可能になる地声での歌唱や、ウィスパーが生まれ、歌唱スタイルは多様化してきた。
現代のポピュラーミュージックにおいて「歌唱力」は単に技術の指標ではない。歌手が持つ技術、音楽性、個性など、何らかの魅力の「大きさのみを示す言葉」とするのが適当だろう。
「あの人は歌唱力がある」と言えばなんだか解決してしまう魔法の言葉であるが、何をもってどういうベクトル(向き+大きさ)で凄いのか、そこまでじっくり考える必要があるだろう。歌手を批評する際には安易に、「歌唱力」という便利な言葉でごまかしてはいけない。
声優の「歌唱力」
結論から言うと、「純粋な音楽」においてほとんどの場合、声優は本業の歌手にかなわない。
技術然り、センス然り…音楽にすべてを捧げた者を見くびってはならない。
以前より疑問なのだが、なぜ、「アニメ映画に俳優が声優として出演する」ことは批判されるのに、「ライブやアニメ作品で声優が歌手として歌う」ことは批判されないのか?
(主張1)「声優には技術があり、センスがあり、俳優にも、もちろん魅力はあるだろうが声優には敵わない。」
(主張2)「歌手には技術があり、センスがあり、声優にも、もちろん魅力はあるだろうが歌手には敵わない。」
(主張1)の筋が通るなら、(主張2)の筋が通っても不思議ではない。
先ほど述べたように、「純粋な音楽」においては声優は歌手に敵わない。
しかし、「純粋な音楽」の話であり、声優にしか出せない魅力を放つ場合もある
「役者」と「音楽」
やっと本題に入る。
歌を歌うなら、役者には役者なりの音楽の引き出しがあると思うのだ。
役者の最大の武器「演技力」を捨て、わざわざ歌手と同じ土俵に上がりに行く必要はない。
演技力という武器を携えた役者にしか上がれない土俵がある。
ミュージカル
役者の歌の完成形、ミュージカル。
歌手でもミュージカルに出演することはあるが、メインキャストに歌手が一人も出演していない名作ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」。
近年のミュージカル映画では群を抜いている。
この映画を冷静に鑑賞することはできないだろう。
僕は、この作品のディスクをプレイヤーに入れる行為ですら勇気がいる。勇気を振り絞って再生しても、誰かと鑑賞はできない。必ず泣き崩れるからだ。比喩ではない。嗚咽をもらし、しばらく立ち上がることすらできなくなる。
誰もが己の正義を持っているがゆえに衝突し、葛藤する。誰一人として悪人ではないが、誰しもが時代の悲劇に巻き込まれてゆく。ヴィクトル・ユゴーの原作小説の素晴らしいのは語るまでもない。
一切の妥協を許さない衣装は、豪華な貴族と路上で生活する貧困層をリアルに描き出す。
通常のミュージカルの収録であれば、映像を収録したのち、スタジオで歌声だけ吹き替えるが、その手法は一切使っていない。撮影現場で役者が演じたそのままの音源は歌声に混じる息遣いがより演技に表情を与える。
いかに素晴らしい音楽でも、ここまでの世界を作り出すことは不可能だろう。
役者は「純粋な音楽」では歌手には敵わない。
しかし、役者は、その演技力を主体に、音楽、映像、演出、脚本を組み合わせた総合芸術を作り出すことができる。
最高の音楽を用意するのは音楽家の仕事だ。
最高の脚本を用意するのは脚本家の仕事だ。
彼らの仕事を、演技をもって芸術に昇華させるのは役者の仕事だ。
冒頭に述べた、「声優には役者でいてほしい」理由がここにある。
素晴らしい演技の才能を端において、音楽家を気取らないでほしい。
音楽家は、役者が成しえないことを実現することができる。
役者は、音楽家が成しえないことを実現することができる。
コンセプトアルバム
大作志向のプログレッシブバンドから、奇抜な衣装とメイクで音楽界だけでなくファッション業界にも多大な影響を与えたグラムロックまで、様々なジャンルの音楽家が挑んできた作品の形態。
コンセプトアルバム。
アルバム一枚を通して一つの物語を形成する。
交響詩に近い発想のその音楽は、想像力を引き立て、目の前に映像を映し出す。
上の動画はコンセプトアルバムではないが、物語性を持った20分に及ぶ大作。カナダのRushというバンドが1976年に発表した「西暦2112年」。
偉大なコンピューターを崇拝するシリンクスの寺院が支配する西暦2112年の世界。あるとき、古代の遺品である「ギター」を偶然発見した人物の物語となっている。
ヒステリックな高音のヴォーカルは狂気じみたシリンクス寺院の指導者の説教を思わせる。
川の音をバックに、適当に弦を弾いた音が聞こえてくる。フレーズは徐々複雑になってゆく。その様子から森の奥でギターを発見し、興味を持って触っているうちに、どんどん音楽に惹かれていくさまがわかる。
まるで、SF映画を見ているような気分になる。
声優が歌を歌うのであれば、その声を巧みに操る技術を生かした物語性のある曲が適しているのではないか。
イヤホンズ「新次元航路」
この曲は最も過小評価されている曲の一つだろう。
この曲を序曲として、2時間強の舞台にできればなかなか面白いことになるのではと思うのだが。
イヤホンズ「あたしのなかのものがたり」
楽曲、歌唱、演出。声優が生み出す総合芸術として一つの完成形。
楽曲も面白いし、変な音程を指定されても外さない高橋さんの音程感は素直にすごいと思う。
全ての声優のアルバムを聴いたわけではないのだが、イヤホンズは異色な存在であると感じた。
アニメ作品がきっかけで結成されたユニット。よくある形態だが、生み出している音楽はどれも興味深い。安易なバンドサウンドを使う訳でも打ち込みですべて完結させるわけでもなく、シンセサイザーと生の楽器とで先進的な音を出している。
「声優のユニット」というカテゴリーに納めずに、普段邦楽を聞く方々にも是非とも聞いてほしいユニットだ。
僕はイヤホンズに新たな声優の可能性をみた。
最後に…
他の歌手と同じように歌うのもいいとは思うのだ。しかし、声優にしか生み出せないものを生み出してほしい。
安っぽい「アーティスト」なんて言葉でくくられないでほしい。
声優の仕事は多岐にわたるようになった今日、どうも少し迷走しているしているのではないか?デビュー間もない、年齢的にもまだまだこれからな新人声優が「アーティスト」として売り出される。活動内容は本人の自由だからどうこう指図するつもりはないが、金をかき集めるために使い捨てられる商品になってほしくない。
いずれ、僕が自信を持って、自分は音楽家だといえる日が来たら一緒に仕事をしたい人がたくさんいる。その日までに、優秀な人材が「消費」しつくされないように祈ってやまない。
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