連日、1日あたりの新型コロナウイルスの新規感染者数が過去最多を更新し、未だに感染拡大のピークアウトすら見えない今日、「フジ・ロックフェスティバル」が強行された。
普段ならば、YouTubeのライブ配信で好みのミュージシャンの演奏を見られたならば両手をあげて喜ぶのだが、今回はどうにも違った。
ステージから離れた芝生の上は人はまばらであったが、ステージの近くは普段のフェスと変わらず人が密集し、ステージ上のミュージシャンが観客を煽る。
「このフェスで誰が幸せになるのだろう?」
それが率直な感想であった。
コロナ禍において音楽家も含め、芸術家がなすべきことはフェスを強行することではない。
他になすべきことがある様に思うのだ。
芸術の存在価値
そもそも芸術とはなんなのであろうか?
一個人の意見として、芸術は以下のものである。
あらゆる感情、あらゆる事実を、美を持って表現することのできるもの
Metallica ”One”
メタリカの代表曲である「One」。
戦争によって両手両足を失い、痛みに苦しめられながらも「サンプル」として生かされ続ける主人公の悲痛な叫びが綴られた曲。
「助けてくれ。助けられないのなら殺してくれ。」
曲調も歌詞も、込められたメッセージも、ここまで重い曲と言うのはないだろう。
主人公の心は、怒り、悲しみ、絶望、死への微かな希望など、様々な極端な感情が嵐のように吹き荒れていることだろう。
それら、いかなる極端で複雑な感情ですら表現する力を芸術は持っている。
芸術という変換装置
事実をそのまま人々に与えたとしても、それは到底受け入れ難いものである。
誰も調理なしに食材をかじって生活する人はいないだろう。
事実を芸術というフィルターを通すことにより、その事実はある種の「美」を纏う。
「美」を纏った事実はより雄弁に物語を語り、より人々の心に染み渡る。
仮に、ピカソがゲルニカの無差別爆撃に対してただ単に現状を伝えたとしても、多くの人に伝わりはしなかったであろう。
彼の類稀な才能により、ゲルニカの惨劇が一枚の巨大な絵画に表現され、より普遍的な意味を持つ様になった。
時代も場所も関係なく、暴力が招く悲惨な結果を現代に生きる我々にも新鮮さを持って伝えている。
コロナ禍の芸術家の使命
政治家の発言力の低下、行政の施行できる感染症対策の手詰まり。
危機感の薄れや、現状に対する不満や反発。
芸術家がなすべきはSNSで政権に対する文句や愚痴を垂れることではない。
文句や愚痴を垂れ流すのは我々一般人で十分だ。
芸術家は芸術家にしかできないことがある。
政治的なメッセージの配信
コロナ禍に突入してまもない頃、「ステイホーム」が提唱され始めた頃のことを覚えているだろうか?
夢見ていた新生活とは程遠い実情に憤った方もおられよう。
なぜ外出を自粛せねばならぬのだと旅行の計画を立てていた方もおられよう。
人々が突如変容した世界に戸惑う中、星野源さんのこの動画が強力なメッセージとなったのは記憶に新しい。
「うちにいよう」
言葉で示しただけでは誰の耳にも届かない。
しかしながら、音楽ならば話は違う。
これこそ芸術家の仕事である。
娯楽の提供
夏目漱石の名著「草枕」の冒頭。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
〜中略〜
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに、画家という使命が降る。
夏目漱石著「草枕」より引用
文体が古く、なんとも読みにくい文章で、何度挑戦しようとも未だに読破はできていないが、冒頭部分を読むだけでもその魅力は伝わるであろう。
漱石先生もまたある種の芸術家である。
この冒頭には、芸術家の彼が思う芸術のあり方が示されているように思う。
コロナ禍の住みにくい世界から逃避することはできない。
ならばせめて、コロナ禍の様式で、少しでもくつろげるような心を癒すようなものが必要である。
それが芸術家の二つ目の使命である。
まとめ
今回のフジロック強行について、批判するつもりはない。
開催せねばならぬ事情もあったのだろうし、優先されるべき事柄が私とは違ったのだろう。
しかし、好きなバンドが出演しているのを見て残念に思ったのは事実である。
ある種の事件とも言えるフジロックの強行をただ批判するだけではなんの生産性もない。
これをきっかけに、今日の芸術家がコロナ禍で何をなすべきなのか考えるきっかけになればと願ってやまない。
芸術で腹が膨れぬのはその道を歩み始めた頃から百も承知の事実であろう。
これまでに財を成した音楽家は、しばし芸術活動に専念すべきである。
音楽家は断じて音楽屋であってはならぬ。
コメント