「吹奏楽部にコントラバスは必要か?」
おそらく吹奏楽部が発足して以来、ずっと多くの部員、顧問、指導者及び保護者が疑問に思いながらも未だに様々な意見が飛び交い、解決の兆しが見えない問題だ。
今回の記事では、吹奏楽部でコントラバスを手にして、コントラバスにのめり込み、コントラバスを学ぶためにプラハまで行ってしまった筆者の意見を述べたい。
コントラバス不要論
吹奏楽部にコントラバスは必要か?
あえて断言する。
「吹奏楽部」にコントラバスは不要である。
ただ、注意して欲しいが「吹奏楽」の話ではない。あくまでも、「吹奏楽部」においてコントラバスは不要だと考えているのだ。
オーケストラのコントラバス
「作曲家が指定してあるのだから必要だ」
「音に深みが出る」
「ピチカートの音は管楽器に出せない独自のもの」
「舞台上に大きな箱があると音響的に有利」
などなど…
コントラバス必要論者の意見は様々である。
しかし、ずっと疑問なのだ。
吹奏楽曲を描く作曲家は果たしてコントラバスという楽器を最大限活用できているのだろうか?
コントラバスの存在感
コントラバスがその存在感を遺憾無く発揮するのは何といってもオーケストラである。
参考映像のマーラーの交響曲第一番第四楽章。
天下のベルリンフィルの演奏である。
吹奏楽とオーケストラでのコントラバスの存在感の違いは一目瞭然であろう。
コントラバスの活用方法
いわゆるクラシック音楽と呼ばれるジャンルの作曲家はオーケストラの中でのコントラバスの使い方が上手い作曲家が大勢いる。
特に重要な作曲家はベートーヴェンだ。
彼は、ドメニコ・ドラゴネッティというイタリアのコントラバス奏者と出会い、その演奏技術の高さに衝撃を受け、自身の交響曲の中でコントラバスを非常に効果的に用いた。
中でも有名なのが交響曲第五番第三楽章。
はじめは暗く不気味にうごめき、トリオ部分では弦楽器特有のパーカッシブな音で歯切れ良く素早く動く。
多くの吹奏楽部で取り上げる曲でここまでコントラバスが有効活用されている曲は存在するのだろうか?甚だ疑問である。
専制君主制のオーケストラ、共和国の吹奏楽
オーケストラの演奏を見てみると、どうにも吹奏楽でコントラバスの存在感が薄いように感じる。
その理由を考察してみたい。
オーケストラの編成
誤解を恐れずに言えば、オーケストラは貴族たるヴァイオリン属の専制君主制なのである。
高貴なるヴァイオリン属のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロに管楽器や打楽器、ヴィオラ・ダ・ガンバ属出身の準男爵コントラバスが仕えるという構図になっている。
(コントラバスはヴァイオリン属ではない…)
長い歴史の中で、多くの天才が試行錯誤を続けた結果、
「弦五部(第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)の強固な土台をもとに管楽器が華を添え、ティンパニを中心とした打楽器が味付けをする」というオーケストレーションが確立されていった。
吹奏楽の編成
対して吹奏楽は、ヴァイオリン属の封建制度に嫌気がさした管楽器および打楽器、がコントラバスを伴って独立し、共和政のもと、新たな編成を編み出したといった趣がある。
オーケストラにおけるヴァイオリンのような絶対的な支配者が存在するわけではなく、様々な楽器が共存する多様性の音がするのが吹奏楽の音の魅力と言える。
「多様性の音」というと聞こえは良いが、裏を返せばしっかりとした土台が存在しないということだ。
おそらく、その歴史の浅さと支配者の不在が相まって未だに吹奏楽のオーケストレーションは確立されていない。
そのためコントラバスの使い方も多くの作曲家が未だに模索しているというのが現状なのではないだろうか。
コントラバスのUMA化問題
吹奏楽部は無論、管楽器の天下である。
他の部員にとって、弦楽器など、ましてやコントラバスなどUMAに等しい存在なのだ。
(UMAとはツチノコやビッグフットなどの未確認生物の総称)
UMAであると何がいけないのか?
吹奏楽部全体が共有している知識量、情報量が圧倒的に少ない。
部員、顧問、指導者、出入りする楽器店の人など、基本的に管楽器を専門としているため弦楽器の知識はほとんどない。
すると、とんでもない状態の楽器であろうとコントラバスはそのままで放置される。
実際に、僕が最初に手にしたコントラバスはひどい状態であった。
- 弦の巻線がほつれて切れかかっている
- ナットから弦が落ちている
- 駒が傾いている
- 駒が反っている
- 弓の毛が古すぎる
- 松脂が古すぎる
楽器の状態としてはほぼ0点であった。
出入りしている楽器店の人に見せても「コンクールはこのままでいきましょう!」とのことであった。
また、奏法や弦楽器特有の練習方法についても知識が不足しているため成果が上がりにくい。
環境的に見て、吹奏楽部でコントラバスを始めるメリットは皆無である。
ただ、吹奏楽部におけるコントラバスを取り巻く状況は仕方のないものではある。
八百屋に魚を買いに行っても仕方がないのは誰もが知っていることだ。
吹奏楽部のコントラバス
コントラバスという楽器の特性、又、吹奏楽という編成の都合上、吹奏楽部にコントラバスは不要である。
オーケストラからコントラバスを無くせばオーケストラは破綻するが、吹奏楽ではコントラバスがいなくとも音楽は成り立つ。
さらに、管楽器主体の部活ではコントラバスの待遇はこの上なく悪い。
であるならば、コントラバス奏者は吹奏楽部でどうあるべきなのか?
コントラバスの心構え
コントラバスは吹奏楽部に不要な楽器である。
その事を肝に銘じなければなるまい。
吹奏楽部でコントラバスを手にするつもりならば、手にしてしまったのならば、その事実をまずは受け入れなければならない。
管楽器の世界で弦楽器、それもコントラバスを弾くということはそういうことなのだ。
支援が得られる可能性は他の楽器よりも遥かに低い。
まともに演奏できるようになる可能性も遥かに低い。
自分の席が確保されているとは限らないのがコントラバスである。
吹奏楽部でコントラバスを弾くということ
これまでに吹奏楽とオーケストラ、両方でコントラバスを演奏した経験がある。
オーケストラでコントラバスを演奏するという経験は素晴らしい。弦五部がこの上なく気持ち良く鳴るように設計された楽譜を演奏するのは楽しい。自身の存在意義を作曲家が示してくれているのは心強い。
しかしながら、僕の音楽人生を決定づけたのは吹奏楽での演奏経験であったように思う。
「吹奏楽部でコントラバスを弾く」
その意味は、
「吹奏楽部でクラリネットを演奏する」
「吹奏楽部でトランペットを演奏する」
「吹奏楽部でサックスを演奏する」
などとは根本的に意味が違う。
「吹奏楽部でコントラバスを弾く」という選択は単なる楽器の選択ではない。
それは、自身がある種の異質な存在であり続けること、既成概念を壊し続ける選択に他ならない。
吹奏楽部におけるコントラバスは、トランプのジョーカーのような存在だ。
ジョーカーがなくてもゲームは進むが、ルールを破壊するかのように大胆かつ柔軟に振る舞うジョーカーが一、二枚入っているだけで勝負の行方は途端に予測不能になる。
部に不要であるからこそ、自由に大胆に振る舞い、管楽器奏者の常識を破壊して新たな風を吹き込むことができるのがコントラバスである。
「吹奏楽部でコントラバスを弾く」という選択は生き方の選択である。
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